マイズナー11章
7月はすっかりだらけてしまった。筋トレやテニスも少し疲れてた。8月は。。。さらにだらけた。ゲームばっかりしている。でも夏季休暇に少し読書したこともあってか、前よりは活字が読めるようになった気がする。というわけで、マイズナー11章読んだときのメモ。
- 「句読点は感情的なものだ。文法的なものではない。」
確かに、声に出して読み上げるものの句読点が示すものは文法ではない。音楽的な間だ。それによって示されるものは何か?その人物の感情だ。 - 「批判されないと演技を学ぶことができないということと、自分は価値がないという思いを一緒にしてしまうとき、問題が起こる。」
この直後にも書いてあるように、批評は自分の演技にだけ向けられているのだと、客観的に捉えないと自分を殺してしまうことになる。批評家様は、舞台の上ではさぞものすごい名優なんでしょうなあ、ってね。しかし、やはり批判されないと演技というものは学ぶことができないのだろうか?そうだとしたら...辛い。だが批判の中に演技を学ぶものが埋まっているのなら、上手く痛みを避けながら取り出す必要がある。。。そうだろう? - 「テキストを読むとき、最初にしなければいけないことは、自分を見つけることだ。」 役と自分のベクトルを比べ、共通する部分を見つける。そこを足がかりに、自分を役に近づけていくのだ。知性ではなく、感情、腹の底の部分で役に近づいていくのだ。
- 「演技とは、想像上の状況の中で生きることだ。」
演技とは、演じることじゃない。生きること。必死に、一生懸命に。 - 「台本の中の役の名前の下にある、カッコに入れられた小さな言葉、たとえば(柔らかく)、(怒って)、(懇願するように)、あるいは(努力して)、などは読者の助けにはなるが、俳優たちの助けにはならない。いますぐ、線で消してしまうことだ。」
舞台の上では自然に物事が進む。作為的ではない。だから、こんな感情的な指示は消して、そのときの本能を信じろ。優れた脚本家なら、きっと指示のような感情が自然に発生する。
かつてワークショップで習った内容が出てくる。ちょっと感激。一方でますます演技とは何かわからなくなる気もする。ただひたむきに、嘘をつかず正直に、これが第一に意識することかもしれない。
「なぜ芸術家たちは、自分がそのために生まれてきたことを始めるのだろう。彼ら自身さえわからないんだ。ただ、彼らの中にある要求に従うだけだ。」
教え始めた理由を聞かれたマイズナーの言葉だが、なんとなく演技のイメージもこれに見える。舞台の上の役者も、ただ自分の中にある衝動に従うだけ。。。